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Diary : 放送大学のテキスト

今日はちょっと写真と詩について。人が何かしらの芸術に共感したり共鳴したりするとき、そこには何かしらのグッとくるポイントがあると思う。で、それには大きく分けて2つのパターンがあって、1つは抽象的かもしれんけどとても強い力のあるもの。そしてもう1つはちょうどいいところに刺さるジャストミートなもの。どちらかといえば自分は後者が好みでここにある写真もそっち寄りのつもり。何が言いたいかというと表現における適度な具体性というものがある方が刺さりやすくなるよね、というお話。

写 真で言えば場所やキャラクター(特性?)を特定できるようなシンボルが入るだけで人によっては共感しやすいものになったり、文字の要素が入ることでより理 解が促進されたり。もっと言えば言葉で説明しやすいものは「なるほどね」っていうようにわかりやすいものになる。それは音楽における詩にも言えることで、 感情表現だけでなく具体的な行動や状況説明、さらには固有名詞が入るとより事象を限定的に扱うことができる。

もちろん具体的な方向に振りす ぎるととても退屈でつまらないものになりがちだと思うけど、皮肉みたいなことをテーマにしていこうと思う自分にとってはそこ、もうちょっと意識しみる方が いいかな、と。ある特定の意味まで素早くたどり着かせることで逆にそれを裏切ったり逆手にとったような手法にも進める気がするし。意味や解釈の広がりを追 求する芸術ではなく逆に限定的な表現でいかに意図した通りの印象を与えるか、っていう方向やね。

よく逆の方向に進む人もいると思う。若い頃はいろんなもの詰め込んで直接的すぎるほどの表現をしていた人が晩年はすごくそぎ落とされたミニマムな表現になっていく、っていう(格闘ゲームの必殺技の名前も二番目くらいに強いやつはすっごい長いのに、一番強いやつは漢字3文字くらいの究極な感じになったりするよね、関係ないけど)。それはそれでありだけど自分はとりあえずそういうの意識してみようと思う。まぁ結果的には自分なりにバランスとりながら抽象と具象を織り交ぜていくんだけど。

なんでこんな話になったかというと、ある歌の詩の一節が最近頭にこびりついてたから、具体的なもの(ここでは固有名詞)ってやっぱり強いんだな、って思ってたのです。

(前略) 玄関先に吊るされた 放送大学のテキスト 横目で見ながら 一人の部屋 何つくろう 好きなものを食べる 好きなものを飲む 好きなものを遊ぶ 長い夜 (後略) 「ちょっとだけの時」by豊田道倫

こ の「放送大学のテキスト」のワンフレーズでドラマがグッとドラマチックになるよね(矛盾してる?)。これが意味の限定につながるかと言えば逆に広がってる ところもあると思うけれど、意図した世界への入り口にはなってるはず。YouTubeのアドレスとか貼れたら良かったけど見つからんかったから気になった らCD買って。えーと…結論はありませんが皆さんもちょっとその辺意識してみてください。何か変わるかも。この文章自体が抽象的な感じもするけど…まぁ… そんな感じ。おはよう。