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Diary : 雑記 of 雑記

SNSは移り変わりが激しく、そのハコ(メディア)自体がオワコンだとかなんとか言われて飽きられたりするけど、自分にとっては年々利用度が上がってきている気がする。特にtwitterとか情報収集の手段としてはすごくいいプラットフォームになってる。で、毎日のように色んな情報追ってると目につくのはお互いの足ひっぱりあうような不毛なコミュニケーションよね。大小色んな発言とか行動とかが日本中、世界中で炎上してんのよ。それが明確に白黒つくような良し悪しの問題なら「またちゃんとしようね」って感じでするっと見過ごせるんだけど、ほとんどはそうじゃないんよね。どっちの言い分もわかるし、間違ってないよなぁ、みたいなことはよくあるし、逆に「え、この人がこんなこと言うんだ」みたいな失望とかも。まぁそういうのが面白くもあるんだけど。で、自分の中のモヤモヤした感じを晴らそうと発言を辿っていくと結局その一連の発言だけでは何とも判断できず、背景とか前提とされてる認識とか常識とかを整理せんといかんのよね。いわゆるあれだ、コンテクストとか文脈とか言われるやつさ。理系的には公理系とかそういうやつ?社会ってそういう「これはこうです、ってことにします」の積み重ねでできてるのはわかるんだけど、非常にうさんくさいよね。解釈なんて微妙なニュアンスの違いでダークグレーがライトグレーくらいにはなるし、ライトグレーとかほぼオフホワイトだしそれって白じゃん。え、じゃあ白なん?とか考えてたら余計にモヤモヤするから現代人みんなで一緒にビッグバンから見つめ直そう。はいまずビッグバンありました、素粒子とか生まれました、分子ができて水が生まれ生命がなんたらで…え、そもそも本当にビッグバンあったん?ありよりのあり?なしよりのありくらいじゃない?見たん?自信持って言える?言えんのやったら言うなや。はい、ビッグバンはなかったです。じゃあなんなん。とか宇宙の起源を考えてると目の前のクソみたいな政治の汚職とかどうでもよくなるよね。ならんか。ならんな。だからあれだ、結局少しでも自分自身が謙虚に、誠実にあろうとするしかないと思うんさ。言い換えれば「正義を自称しないこと」かな。「我こそが、正義の味方、ナンタラマンだ!」みたいなのはみんな信用できんやん。悪役になるつもりはないけど”正義”は倒したい。倒す。モヤモヤさせて立ち止まらせて悩ます。そんな作品をつくりたいです、はい。的なことを日常のなかとちょっと前にある小説を読んで思ったのでした。大江健三郎の短編「人間の羊」というやつね。多分大学生のときにも読んだけど、最近出た自選短編集で読み直してあらためて普遍的な物語だと感じた。作品自体は60年も前に書かれたものだけど「正義」との対峙についてすごく象徴的なモチーフでわかりやすく表現されてる。オーケンについては賛否色々あると思うけど特に初期作品は好きです。ぜひご一読を。あれ、そんなことが言いたいんだっけ…。この作品についてはわかりやすく解説してるブログがあったのでそちらをご覧ください。じゃあ最初からそこのリンクだけでいいやん。とか言われそうなので自分の撮った写真貼っときます。最近岐阜をトボトボ歩きがちです。